バウルの歌を探しに

畑に春の青い花が咲いていた。同じ畑にキリギリスが鈍くなった動きをじっと小松菜の葉に横たえていた。今年の冬はこんな共存が可能なのだ。同じ場所には琵琶の花が最盛を迎えている。名も知らない小鳥が琵琶の花に止まっている。これはまさに今の風景だ。
偶然から本屋さんの棚にあった「バウルの歌を探しに」という本を買った。著者も本の題名も知っていたわけではないけれど、読み進むうちに面白くて、先へ先へと読んでしまった。「バウル」とはなにか、というところから始まるのだが、バウルのことを説明ができる人はどこにもいないが、バウルはバングラデシュの生活の中にふつうに入っている。哲学とも呼べるし、そうでないとも呼べる。というのがバウルである。タゴール、ロランもバウルに関わったらしいけれど、はっきりそうであるともいいきれない。しかしラロンもタゴールも、国の有名な詩人たちだ。
思い返すに、20数年のバングラデシュのかかわりの中で、自分もその哲学に、気がつかずに触れてきたのではないだろうか、と思うのだ。だいたい訳を聞いていると、自分は「イエス」くらいしか言っていないにも関わらず、5分たってもその訳が終わらない。村の人たちの言い訳に関して言えば、終わることがなく、たいていの場合自分のほうから「言い訳はもういいです!」とキットした目をして打ち切りにすることが多いのだ。なにをそんなに話すことがあるのだろう。「イエス」から。
その昔、サクラモヒラをスタートさせたハクさんのお付き合いで外交官のトレーニングセンターで、彼の話を聞いたのだが、あるジョークとも言えないジョークは今となっても忘れることができない。彼はこう言ったのだ。「アメリカ人はバングラデシュ人の3倍働く。日本人はその2倍働く。バングラデシュ人は半分しゃべって、半分働く」でも彼らの生活、特に村の人たちの、というよりはむしろ立場の弱い人たちの生活スタイルを見ていると、ほんとによく言い訳をして、終わることがない。それがバウルの哲学と関係するかどうかは分からないけれど・・・でも、
忙しい現代生活を超越したところにバウルの哲学が流れているとすれば、村の人たちは意識せずして、その哲学を心にもっているのかもしれない。
今頃になって、そのような文化のことがやっとわかった。無知はほんとに恐ろしい。

ところで、明日12月1日(土)、2時からギャラリーサクラモヒラにて、平間の話の会があります。タイトルは:「サクラモヒラの始まり」25年前のバングラデシュの貧村の生活とそこに暮す人々が話の中心になります

 
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by sakura_mohila | 2018-11-30 16:26 | Comments(0)  

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