春のに向けて

公園を歩くと、新しい花が次々に開いている。桜もほころび始めた。杏は今が絶頂の時・・・はんとに春の到来は理由もなく楽しい。菜の花も一面に咲いていた。昼と夜の長さもすでに同じになったのか!なるほど6時で、まだ日が残っているし、朝の6時はすでに明るい。最近は建物の間から垣間見る日の出を見るのを楽しみにしていたが、それも動いて、あの真っ赤な日の出が見られなくなった。かなり高くあがってしまってから、窓を真っ赤に染めるけれど、あの日の丸は何度見ても、また見たくなり、朝の食事の支度がついつい遅くなってしまった。
「イギリスの二人の女王--メアリ・スチュアートとエリザベス」の映画が見たくて、時間を工面して見てきたけれど、ほんとにそれだけの価値のある時間だった。学生の時に勉強したことの多くはすでに忘却の彼方であったけれど、16世紀のヨーロッパの状況や生活の様子も大変に興味深かった。学生時代には思いもよらないことであったが、二人の女王の孤独の姿、その孤独に耐え、国を統率しようと自分に鞭打つ姿が印象的であった。裏切りは日常茶飯事の中で、一つ、一つ、裏切りと命の危険の経験を重ねていく。兄弟や親戚でさえ信じられない環境にあって、理解できあえるのは、女王同士であるはずが、その関係さえも、裏切りと命を狙うという関係になってしまう。その姿勢は、今の自分の年齢にあって、強く心に残った。人間の孤独はどこまで深いのだろうか。どこまで浅いのだろうか。
時間をかけて、本を読みたくなった。ほんとにすばらしい映画である。

# by sakura_mohila | 2019-03-21 18:06 | Comments(0)  

食べること

3月になって、毎朝、窓から見える日の出を楽しみにしています。6時前に朝の空を茜色に染めながら、真っ赤な太陽が建物の間から顔を出し始めます。顔を覗かせてから全容が空に見えるまでの時間は驚くほど速く、ぐいぐいと昇るのだろうな、と推測します。ある知り合いにそのことを話したら、彼女は若い頃山登りをして、山から日の出を視たそうです。昇る太陽がまるで手の届きそうな所に見えて、思わず腕を伸ばしてしまった、と言っていました。
山崎佳代子さんという詩人がいて、彼女はセルビア共和国に居を定めているそうです。戦火を生きる人々が故郷の食べ物のことを話す時、思わず見せる幸せの表情を書いています。「パンと野いちご 戦火のセルビア、食物の記録」(暮しの手帳#98)
東日本大震災の時山崎さんはたまたま東京におられて、被災者に心を痛められたそうです。彼女はインタービューの中でこう語っています。「今こそ、友人たち(セルビア人)の戦争を記憶を日本語に訳し、日本の人たちに届けられないだろうか」
「食べ物はその人の人生と分かちがたく結びついていると同時に、その土地の歴史やそこで生きる人々の気質まで含むもの。セルビアも、戦争も日本からはものすごく遠く感じるかもしれません。けれども、この土地に生きる人が食べ物の話を中心に戦争を語ったら、日本の人たちにも、ぐっと身近にたぐりよせて「戦争とはどういうものかを味わっていただけるのでは、と思ったのです」
食べ物や人と食べることは、どこにあっても、身分が違っても、変わらない命ある者の喜びである時、もっと食べることを大切にしたいと思いました。おいしいものを食べることも喜びであろうけれど、粗末なものでも人と楽しく食べることの喜びはほんとに大きい、と思うのです。
サクラモヒラの村の人たちが、なんとかして自分の家で食べてもらおうとして、一生懸命準備してくれる食べ物。断ったら、ほんとにがっかりとした顔になります。しかし村からダッカまでの距離は長く、そそくさと帰ってきてしまうのですが、今や反省することしきりです。それに加えて、「お腹をこわさないだろうか」と心配して、いつも食べたふりをしてくるのですが、まったく器量の小さな人間です。反省!


# by sakura_mohila | 2019-03-15 11:00 | Comments(0)  

ニットのクラスの変更事項

サクラモヒラは火曜日が定休日です。七字先生のニットのクラスの後、大宮公園の梅を観ようとぶらぶらと公演を歩いていたら、鵜が木の陰からふいっと現れました。いつみても、悪者然としていて、「ヨッ!ワルモノ!」とあいさつをしたくなるのです。こちら側の思惑も何も関係なく、忙しなく水に潜って獲物をあさっていました。琵琶湖をめぐっていて、琵琶湖のほとりにある島に行った時、鵜が増えすぎてその糞が木をからしてしまうために、その島では害鳥になっているようでした。ワルモノがほんとに悪者になってしまったと、ちょっと哀しい気持ちになりましたが、その島で鵜に会うことはありませんでした。気兼ねして暮らしているのでしょうか?
七字先生のニットのクラスでは、2時間の中で、手を動かしながら、いろいろな話題がテーブルに上がります。その話題も楽しみの一つです。昔は覚えていた話題も、今は思い出さなくなってしまいました。ほんとに年は取るものです。
5月からは、大宮駅東口にある押田謙文堂書店内3Fのギャラリーサクラモヒラにお稽古場が移動になります。第3火曜日に変り、時間も10時10分の始まりになります。ご興味のある方は、ご連絡をお待ちします。


# by sakura_mohila | 2019-03-13 15:20 | Comments(0)  

樫野紀元先生の論語のクラス

毎月第2土曜日の10時半からは、樫野紀元先生の論語のクラスがあります。始まってから、すでに数年になるので、「論語」もいろいろな展開をしながら、実は樫野先生の人間学講座になっています。参加者は先生に自由にわがままをお願いしながら、楽しく学んでいます。2019年の5月からは、人間学講座として、「偉人、聖人の生き方に学ぶ」と題して、澁澤栄一、ゲーテなど、12人の人たちのことを学びます。学校では決して教わらないような内容にまで踏み込んで、興味は尽きることがありません。参加者のコメントなどもあって、展開は行き着くことをしらないおもしろさでいっぱいです。
9日の3月の論語の会では、「人をみる目」ということをテーマに論語を教わりました。リストしてみましょう。
1)其のなすところを視、其の由るところを観、其の安ずるところを察すれば、人いずくんぞかくさん哉」
2)君子固より窮す。小人窮すればここに濫る」
3)君子は義にさとり、小人は利にさとる」
4)君子は周して比せず、小人は比して周せず」
5)君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」
6)君子は坦として蕩々たり。小人は長に戚々たり」
7)君子は諸を己に求む。小人は諸を人に求む」

見る、という言葉だけでも、漢字が変わり、「固より」ということが「断固」「確固」の部分であったりと、もともと使われていた言葉の意味を考えることも興味深いです。孔子さんの頃から続いた人間の共通項目や、古事記の時代との比較などもあって、当時の生活の様子や、その背景での人間関係など、ためになるというよりは、好奇心がわくわくとします。
参加ご希望のかたは、ご一報くださるよう、お願いします。




# by sakura_mohila | 2019-03-11 15:32 | Comments(0)  

届いた荷物

木曜日は、鴻巣市にある香文木で英語の教室があります。もう何年になるでしょうか?香文木さんには1000坪のお庭があり、農薬なしでお庭の管理をしています。というか、ある意味、自然に任せて、お庭を楽しんでおられます。
先週は、花がなかったのに、昨日うかがったら、何本もある梅の木が一斉に花をつけていました。その中には、150年を経過した梅の木があって、さすがに貫禄の姿を見せて咲いていました。大木なので、あたりに梅の香を漂わせていました。香文木さんは、この木から取れる梅の実で梅干しを作り、ジャムを作り…と、お忙しさは見兼ねる時があるとしても、羨望の的です。
木の根元にふきのとうがぽこぽこと顔を出していました。もちろん、ふきのとうの天ぷらがその日の香文木さんのご馳走でした。次はせりのころです。
3月20日から香文木さんのギャラリーで、展示会があるので、(やっと)DMはがきを作って持っていきました。スタッフが3種類の写真を使って作りました。鞄からやおら取りだしたら、「かわいい!!!」という黄色い声。村の女性たちの製品でした。そのような反応がとても嬉しかったです。スタッフはよい物を選んで、写真として使ったのですが、はからずもそれはすべて村の女性たちの作ったものでした。
長い年月にはこのようなこともあるのだ、と静かに喜んでいます。

# by sakura_mohila | 2019-03-08 13:03 | Comments(0)  

レインツリーの木の芽時

2月の半ば頃に、バングラデシュのナラヤンプール村に旅したことがある。1月の涼しい時が過ぎて、次の季節に移ろうとする時だけれど、レインツリーの並木道を車に身を任せながら、芽吹きの時を楽しんだ。南国の空に見える、新芽が、帰路の夕日の中でほんとに美しかった。
昨日のような春めいた日に庭に出て、作業をしていると、あちらこちらに、小さな芽が出てきている。芽吹いたばかりの芽は冬の間の枯草に交じって、青々として、それだけで力強さや希望を人に抱かせる。ぼたん、釣鐘層、貝母ユリ、春蘭、薔薇、、、小さな春を一つ、一つ数えて過ごした。
ダッカの家には春がない。行ったり来たりの生活だから、植物の管理ができず、時々、これで植物があったらなあ、と思ってしまうのだ。そうだ、留守の間、面倒をみてくれる人を頼めばいいのだ!と、思ってみるものの、ダッカの生活はあまりにも忙しく、短期間だ。さて、、、

# by sakura_mohila | 2019-03-06 15:23 | Comments(0)  

うららかさに誘われて歩いていたら、白い梅の木でメジロが2羽、戯れていた。小さな体を枝から枝へと軽やかに動かしながら、白い梅の花びらをついばんでいる。そのたびに花びらがひらひらと舞いながら地面に落ちていた。嬉しくなって、しばらくじっと彼らを見やっていたけれど、メジロにしてはめずらしく用心することもなく見られるままに、梅の花の木の中に遊んでいる。堪能した小鳥と梅の花だが、それだけで今日はなにか運のいい日だと信じられるから、2羽のメジロの力は大きなものだ。
大宮公園の池のガマが取り除かれて、めっきり冬の鳥たちが姿を見せなくなったけれど、公園の池を通るたびに「ばさばさ」というアオサギの羽音を思い出す。自分の人生でも数年前に1回、起きただけのことだけれど、その羽音は未だに頭に反響して忘れることがない。そのアオサギは私の髪をかすめて、大きな弧を描いて池のガマの島に着地したのであるが、その羽音で姿を見る前から、アオサギに違いない、と察することができた。それくらいにあの大きな鳥の羽音は力強いものであった。忘れたことがないけれど、もう一度聞きたいなあ。そして自分の頭をかすめたあの羽の感触!
これも人生で一回きりの鳥との経験の話。湘南の海辺でおいなりを食べていた。ちょうど春の頃で、海が香り始めたころのことだ。海の見下ろせる丘の上に腰をおろし、そのあたりの有名店で買ったお昼のお寿司の箱からおいなりを箸でつまみ、食べようとした時だ。一瞬にしてナイ!つまみあげたはずのおいなりがナイ!その時でさえ、鳶にさらわれたことに気が付いていない。「ナイ!ナイ!ヘンダナア!」勘違いかと思い次のおいなりを。しかし一瞬で消えるのだ!何個か寄付して、やっと犯人は鳶とわかったけれど。しかしあざやかに、羽音もなかれば、何もない。あれは見事だ。まわりに注意書きがあった。「鳶にご注意を」
次も一回きりの鳥の経験の話。ダッカのある5階の家でお茶をご馳走になっていた時。窓の外にふと目をやると、蛍光色の緑の赤の鳥が2羽、木の上に苫っていた。いつまでも苫っていた。あの鮮やかな色。初めて野生で見る鮮やかさだ。あれ以来、注意して木があると上をみるのだけれど、もう同じ鳥を見ることはない。ダッカの住いは10階なれど、来るのはカラスばかりなり。日本の烏よりは小ぶりで禿げ頭だ。



# by sakura_mohila | 2019-03-05 15:56 | Comments(0)  

雛祭り

雨の梅の林を通り抜けたら、ほんとに気品のある香りがした。こんな時、雨でも風でも、とにかく梅の季節が好きになる。寒いけれど、きがつけば、少しずつ花が咲き始めている。それも寒さに縮こまって咲く咲き方ではなく、季節がきたから自然に咲いた、という咲き方で咲いている。
今年は、雛祭りの頃に重なった計画があって、桜餅を心存分に楽しんだ。和菓子屋さんが違うだけで、餡の甘さや生地の硬さや、桜の葉のニッキの効き方も違っている。ついでに草団子もおみやげについてきて、いただいたけれど、もちくさの香りがおいしかった。もちくさの生えているところさえも知らないのに、もちくさが春の香りだと思うのはなんだろう?草餅は春に香りを食べたい。夏や秋にはおいしいとおもえないではないか。しかしもぐさのお灸は季節を問わず、なにかが治りそうな匂いだ。
雛祭りの日に、ちょうど日曜日だったこともあって、日経の日曜版にお雛様の顔や衣装が映し出されていた。もちろん最高の技術を持った職人さんの手になるものであろうけれど、そのお顔の美しさにどうやって辿りついたのであろうか?その衣装には?
私の家にも古い人形があって、祖母が飾っていたけれど、貧しさゆえか、田舎であったゆえか、お顔もぱっとしないし、なんとなく農作業さえもしている風情の庶民的な人形であった。おまけに長い年月を経て、ところどころかけているから、「きれいというより古い」人形たちであった。いったい我が家の先祖のだれがそれらの人形で祝ってもらい、だれがその美しさを愛でたのであろうか。
雛人形の衣装の材質も、布を扱うようになった今となっては興味深く、見てしまったけれど、ため息がでてくる。こんなに美しい世界が生活と同時進行していたのだ!
隣のページには組子の記事を扱ってあった。職人さんが「クミコ」と言うと、奥さんの名前ですか、と聞かれてしまうくらいに、その技は知られることがなくなったそうだ。
美しい製品でさえ、人のリードが必要なのかもしれない。今になって、断舎利とやらに踊らされて、捨ててしまった組子の小物が惜しまれる。ほんとに、無知の極みであった。

# by sakura_mohila | 2019-03-04 12:07 | Comments(0)  

キャンディ

バングラデシュの文句をひとしきり吐き出してしまうと、また皆に会いたくなる。こんなに苛立ちを募らせているのに。
一つには、皆一生懸命だ。そして皆、心から笑う。
かくして皆から離れていると、自分の足りなさが見えてくるのだ。上から目線で物を言っていないか?彼女たちには彼女たちの文句があるかもしれない。しかし、それを抑えて、一生懸命に働く。腹から笑う。腹から「安い」という。右と左が違う復路でも、「時間がかかったのだ」
しかしこちらもふんだんにある資金ではないから、基準以下の仕事に対して彼女たちの満足のゆく支払はできない。
サクラモヒラのも始まりはチャリティであった。何も知らなかったから、あれもあげたい、これもあげたい、と思ったし、初めはそれでよかったのかもしれない。いつからか、お金を支払うようになってから、こちらの要求が始まった。向こうの要求こちらの要求も、相手に求めることに限りがない。
しかし、私はこの関わり方が好きだ。彼女たちも一生懸命かもしれないけれど、こちらも支払に四苦八苦してしのぎを削っているのだ。だからこそ一体感も生まれるし、要求も生まれている。そして対等な関係も生まれてくるのではないだろうか。

この一体感は外部の人には理解が及ばない。「途上国の人たちは…」と一般論で理解を示されると、表立って反論はしないけれど、もう会話を打ち切りにしたくなる。活動をとおして途上国に関わる人は、一般化shした表現をしない。自分の問題として意識するからだ。
いつのまにか、自分が本やなにかから借りてきた言葉で一般論を展開し、先進国目線の物言いをしなくなった。そうだよ、途上国の人になっているからね。




# by sakura_mohila | 2019-03-02 11:38 | Comments(0)  

バングラデシュの美味

スタッフたちのために、桜餅を買ってきました。和菓子やおせんべいを買う時には、いつも地元の和菓子屋さんと決めています。そこで、パックに入っていない桜餅を買いました。こう書いてから、あるフランス映画のシーンを思い出しました。ある高齢のフランス夫人は今や一人で生活しています。彼女の面倒をみてくれているのは、東ヨーロッパからの移民の中年女性です。老齢のご婦人はかたくなになり、お手伝いのだれも長続きしませんでした。今回もそんなふうにお手伝いさんに接している老齢夫人ですが、ある時、お手伝いが朝食用に、クロワッサンを買ってきました。老齢夫人の朝食はクロワッサンと紅茶、それをベッドに運ばせて朝食になるのです。そのクロワッサンを見た時、老齢夫人は言い放つのです。「私はプラスティックは食べないわ」お手伝いさんは貧しい移民の育ちです。彼女は贅沢は想像もできずに、スーパーマーケットからお手頃価格のクロワッサンを主人のために整えたのでした。彼女は買い直しに出かけます。
最後は老齢夫人は心を開き、二人を心を通わせるようになるので、ご心配なく。
しかし、昔ながらの経木に包まれたおまんじゅうや和菓子は、郷愁も運んで、おいしい味に思われるのです。私は食べ物に関して特別な感情を持った人でもなんでもありませんが、経木の中の和菓子はやはり、うれしいものです。

今回ダッカで懐かしい食べ物に遭遇しました。ドーイ、と呼ばれるヨーグルトです。初めにバングラデシュに行った時には、美食の食べ物で、裕福な家ならどこでもデザートに出されたものでした。社会の発展にともない、そのヨーグルト店は姿を消しました。ところが。ちょっと高めのスーパーでプラスティック容器に入り、清潔そうないでたちで売られていたのです。昔はテラコッタの容器の中で、作られて、それはそれで趣のあるものでした。
バングラデシュのミルク、ヨーグルト、チーズはとてもおいしいです。

# by sakura_mohila | 2019-03-01 12:47 | Comments(0)