価値感

台風の風がビュウ、ビュウ吹き抜けている。ビルの谷間を通り抜けようとしたら、風に押されて息が詰まりそうになった。シニアの紳士が帽子をしっかりと押さえて、前かがみになって歩いていった。こんなふうに今年の秋はやってきているのだ。あちこちに秋の蒼い実が育ち始めている。
今年の夏は、いくつかの大学の学生さんたちからアクセスがあった。吹けば飛ばされること確実のサクラモヒラの機械ではない仕事場を見たいという人、かの国の自然環境に興味のある人、環境という観点から現代の物流を考えたい人など、興味の方向はだいたい似ている。先生を通してくる人、単独で来る人といろいろだけれど、いちように海外での対応が普通にできる人たちだ。外国も長野も新潟も同じように行動できる若者たちなのだ。
片や、バングラデシュの側はどうなのだろう。海外旅行をする人たちはほんとに増えたと思うけれど、空港で見るたびに荷物の量が断然に違う。皆、これから海外に移住しかねんばかりの荷物の量だ。
20数年前、バングラデシュに初めて行った時、それから2~3年間くらいは、日本人の荷物の量は半端ではなかった。両手に持って、かついで、それでも足りなくて、旦那さんを一人連れていた(あまり二人はいないと思うけれど)。もちろん彼も同じだけの荷物を持って。中古のものばかり。バングラデシュの人たちにあげるのだと、言っていた。それでも、なにかとてもうきうきと話していた。
帰国する時、なんだかんだとお土産を持たせてもらった。その結果、件の日本人と同じくらいの荷物をもつはめになり、持ちなれない荷物の量によたよたとしていたら、九州に留学していて、なにも手荷物をもっていないバングラデシュ人の学生さんが、見かねて持ってくれた。
九州から電話をくれたけれど、なにか冷たいあしらいをシテシマッタナア・・・いまごろどこでどうしておられることだろう。
それはともかく、20年も経てば、世の中は変わるのだ!

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# by sakura_mohila | 2018-08-17 12:24 | Comments(0)  

昔の生活

オフィスの冷蔵庫が、「大往生」という感じで動かなくなった。ほんとに静かに、自然に力が失せた、という感じの終わり方であった。
オフィスなので、あればなにかと便利にとりあえずは食べ物、飲み物を入れていたが、料理をしていたわけではないから、なければないで、何も不便なことはない。しかもコンビニは斜向かいにあるのだ。
サクラモヒラで関わるバングラデシュのナラヤンプール村には冷蔵庫のある家はない。それだけの電気のパワーがないからだが、灯りのための電気は薄暗く使えている。村の学校には電線が来ているけれど、電気はない。しかし未だに2部制の学校は太陽の光を利用して、なんとかなっている。村には池や水辺があって、鴨や魚が飼われている。ムガールの頃の城には必ず生簀があって、その場で食料が確保できていたのだ。
城に働く人たちに食料を供給するのは、どのような台所だったのだろうか。
初めてバングラデシュに行った20数年前、お役所などには訪問者が食べられるような食堂があった。食べる場所など簡単には見つからないから、訪問した人はその場所についている食事係が料理した昼を食べるのが一般的であるらしかった。当時、あちこちで、公共のお昼をご馳走になった。味はぜんぜん覚えていないけれど。
パーティの時には、ケイターリングサービスがあって、料理する会社から5から6人のグループが派遣され、その場で料理してくれる。彼らは大きな鍋釜を持って、料理してくれるのだ。
ナラヤンプール村の子どもたちに、ご馳走を食べさせようか、という話が日本側でもちあがった時、いろいろとその可能性をさぐったら、料理人の一行によるケイターリングサービスは利用できるようであった。結局その話は実現しないままになったが、村のようにお金の無い人たちは牛ではなく山羊の肉を食べるのだそうだ。それでもいいから、子どもたち全員が食べられるように、校庭で料理をしてもらって、皆で「おいしいねえ」と言って食べたいねえ。蒼い空があって、そよ風が吹く季節に。

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# by sakura_mohila | 2018-08-15 12:43 | Comments(0)  

William Morris

William Morrisのあれこれをインターネットで見ていたら、インドやバングラデシュの花のイメージを連想させり
るものがあり、彼の伝記やThe Arts and Crafts Movementのことをあれこれよんでいるうちに、気がついたことがある。昔、彼のことをいろいろと読んだり、作品を見たりしていたのとは違う視点である。どうしてそんなことに気がつかなかったのだろう。若い時には、William Morrisのデザイン、彼のミュージアムとか、そのような1本線のことがらしか考えることができなかった。だが今は、バングラデシュに偶然関わったおかげで、それが産業革命のもたらしたものであり、彼の社会主義運動もその産業革命の労働の状況と関係があるのではないか、と初めて思い至った。デザインの花も、なにがしかの影響を含みながら、彼の独自のものが花開いたのかもしれない。繊維を織っている工場の写真を見たら、まさにバングラデシュで現在見ている光景そのものである。そしてバングラデシュのコミラという場所にあるカディコトンを織っているサクラモヒラの工房は、それよりももっと、ずっと逆進化した場所である。機会織の工場と手紡ぎ、手織りの工房とは深い関係を持つけれど、ここにWilliam Morris やRuskinが絡んでくるとは、思いもしなかった。学生時代に教わったのかもしれないけれど、自分にそれを理解する基盤がなくて、聞き流してしまったのだろうか。
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# by sakura_mohila | 2018-08-14 18:10 | Comments(0)  

藪みょうが

神社の藪を見たら、藪みょうがが群生していた。白い花の中に黒いつやつやした種をいっぱいにつけて。子どものころ、あちこちに見た植物だけれど、開発の中でいつのまにか神社のような場所でしか見ることもなくなった。
駅に行く道にある家にこの植物が生えている庭がある。おばあさんがピアノの先生だった。そのお嬢さんも、80歳を過ぎられた。もうピアノの音も聞こえてこない。ふと気がついたら、その藪みょうがもなくなっているよ。庭は同じなのに。
その家の庭は手入れがしてあるのかないのかわからない、という風情だが、小さな隙間をぬって、とかげがうろちょろしたり、青大将を一度見かけたことさえもある。あの小さな生き物たちはどこに消えてしまったのだろうか?
神社の藪はとかげやへびが生息していても、さもありなん。しかし神社でそのような生き物をみることはほとんどない。ある夕方、夕焼けの森を通り抜けていたら、ハクビシンがさらに小さな生き物を食べようとしていた。いたちのようなシルエットをみたこともある。いったい彼らは昼間はどこに息を潜めているのだろうか。

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# by sakura_mohila | 2018-08-13 11:41 | Comments(0)  

異文化

普通のトートを作ろうと思い、図柄の版木を頼んだら、1週間後にできてきたのはなんと図柄をそのまま彫った版木。これではプリントしたら、さかさまになってしまうよ!今までこのようなことは初めてである。ぶちきれたのは、いつもいやな顔一つせずサクラモヒラの面倒を見てくれているシラーズさん。他にも小さなミスがいろいろと重なって、サクラモヒラのテイラーにすべてをまかせることにした。滞在期間がこれで終わってしまうからだ。さて、テイラーにただのことだから、ただの指示をしたのであるが、これがびっくり!版木を彫りなおしたのはいいけれど、大きさが違い、インターネットに送ってきた写真は、なにかとんちんかんな絵柄があるだけだ。版木の大きさをそのまま置いてきたのに、なんとしたことだ。そしてこの大きさがそちらとこちらの電話のやりとりではなかなか通じないのだ。なにがわからないの、というくらい単純な事柄で、間違えようも無いことなのに。おまけにテイラーはサンプルを急行便で送ってきた。急行便は費用が高く、こんなふつうのトートではすでに赤字路線に突入である。
なにが?考えても、考えても、指示を違えてくる理由がわからない。向こうもそう思っているかもしれない。ことは、ほんとにただのトートです。
ボタンの穴がひとたび食い違うと、なかなか正しい穴を見つけることができない、という例で、長いバングラデシュの関係の中では何度か経験しました。こんな時は、まず、頭を無の状態にして、1から始める。書くと、ほんとに簡単だ。

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# by sakura_mohila | 2018-08-11 11:59 | Comments(0)  

Dogs and Demons

Alex Kerrの「Dogs and Demons」をちびり、ちびりと読み進むと、彼の日本や日本人に対する考え方が、「まったくそのとおり」という共感をおぼえることしきりである。アメリカ人の目から見たら、不思議に思うことがストレートに見えてくるにちがいない。
特に彼が主張するのは、戦後の貧しい状況から金持ち国になった日本だが、人々が「きれい」というのはプラスチックやなにかのピカピカとして傷がなく一見「きれい」に見えるものばかり。手仕事のもたもたは、手仕事として評価する基準がなくて、昔の劣ったものという感覚で見る。日本語の中で「きれい」という時、きちんとかたずいている、美しいの二つのことを意味する。
そのような感覚は個人ばかりではなく、公共事業の中にも溢れていて、お金持ちにはなったけれど、気持ちは途上国にとどまっている、のではないかという彼の洞察がある。
明治以来、日本は西洋の国に倣って近代化を進めてきたわけだから、手本はいつも西洋文化の中にあって、その視点から抜け出るのはなかなか難しく、時間がかかる。気がつかぬ間に抜け出ることができているのかもしれない。
国際ニュースを日本のメディアで聞いたり、読んだりしていて、ある時、ふと、気がつくことがある。日本での報道はそうでも、現地では視点がちがうのだ!
彼は日本の田舎で深く現地の生活に入り込んでいるが、その中から見えてくるもの、そして彼が出す提案は耳を傾けてもいい、と思うのだ。

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# by sakura_mohila | 2018-08-10 18:21 | Comments(0)  

村の子どもの絵

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村の子どもたちの絵を使って、絵葉書やキーホルダーを作り、その売り上げは文具で学校にお返しすることにしているが、今回村から届いた絵を見て驚いた。25年前となにも変わらない絵を描いている。いや、25年前の絵のほうがはるかにすばらしかった。どうしたのだろう。
しかしだからと言って、現地の絵の先生を雇うと、もっと大変だ。こちらが気に入るような絵を描かせる。教師にいたっては、「絵の先生がいないのに、どうやって絵を描くのですか?」と聞いてくる。答えは簡単。「絵の教師がいない時の方が絵を上手に描きましたよ」
2004年に公立学校になるまでは、サクラモヒラが教師を三人雇い、絵も、音楽も、英語も教えてきた。学校には魂があった。
村の学校の先生たちよ。やる気がどこに消えたのだ!
ここにアップロードするのは、10歳くらいの子どもの絵だが、なにかかわいい。よし、行くたびにクレヨンと画用紙を持っていくぞ!だいたい、以前に2月においてきたクレヨンと画用紙はどこに消えたのだろうか。新しいクレヨンと画用紙を買って請求書がきた。村で買ったので、クレヨンの色がでないのだそうだ。
こんなことが重なるから、お金の支援はしたくない。教師たちとの接触も現地の人に限ってこちらが顔をださないことだ。
一番悪いのは私のベンガル語が足りないことだ。人に通訳を頼むと安心するけれど、微妙なところがなにか別の伝わり方をしている。しかしそれがよい点は、こちらが言ったことで、相手に都合が悪いとなると、別の伝え方をするか、または言わない、かだ。文化の違いを考えた時、これは非常に重要なことだ。自分に力がないならいっそすべての関係を絶つか。
時々、堂々巡りで考える時がある。



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# by sakura_mohila | 2018-08-09 17:47 | Comments(0)  

野生

山歩きの好きな知り合いは、今時、ほぼ毎週山登りをする。高い山もあるし、低い山もある。山で見る花の美しさに魅せられるのだそうだ。登るという行為の労力、山という環境の中に咲く花、空気、鳥、とんぼ等々すべてが作り出す山の世界が美しいのであろう。先週登った山にはりんどうが咲いていたそうだ。
長野に育った近隣の女性がいて、彼女は言うでもなく、野に見るリンドウはほんとにきれいだと言っていた。園芸種のリンドウしか見たことがなかったので、いつも、いつも野で見るリンドウにあこがれていたが、数年前に日光の戦場ヶ原をあるいていて、草の中に咲くリンドウを見つけた。少しこぶりで、りんとして見えた。
同じりんどうでも、園芸種と野生種では違うのだ。ばらもしかり。小鳥もしかり。
人間はどうであろう。

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# by sakura_mohila | 2018-08-08 10:33 | Comments(0)  

変化

雨が降って、涼しくて…一挙に秋が始まった感じがするけれど、きっと一時のことに違いない。我が家の小さな庭には、夏も今頃になると、秋の虫たちの鳴き声が夜の庭のすべてのスペースを埋め尽くそうとし、蜥蜴がファミリーでちょろちょろ動き始め、蛇が朝方塀に張り付いて涼み、土蛙がどこからともなく出ていたり…と登録も何も無い住人たちが大勢いたはずだった。ところが今年はどうだ。住民税の催促をしたわけでもなんでもないのに、蜥蜴さえも顔を見せない。何が起きているのだろう。蜥蜴どころか蝉さえも我が家の庭の木に止まることを止めてしまったのだ。例年よりは蚊も少ない。
薬はあえて撒かないから、一体これは何が起きているのだろうと気になる次第である。虫たちにいたっては、よくぞお隣から騒音の苦情がこないものだ、と胸をなでおろすがお隣にいたっては我が家の何倍もの広さのお庭があるのだ。
大宮公園にしても、かつては美しい尾の色を見せて群れ飛んだ尾長も姿をみせなくなった。そのお池に五位鷺も、かわせみも、その他のめずらしい渡り鳥も姿を見せず、ほんとに淋しい。
サクラモヒラがお世話になる鴻巣にある香文木さんのお庭はほんとに広く、薬を撒かない。そしてその庭には過保護の猫がいるにも関わらず、さまざまな動物たちもやってきている。たぬきさえも姿を見せるし、豊富にある木の実を目当てに鳥たちも楽園のごとくに集まるのだ。雉が巣を作ったりもしているくらいだ。
庭の小さな生き物たちは、かわいい共存者だと思うけれど…

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# by sakura_mohila | 2018-08-07 12:56 | Comments(0)  

なつかしい日本語

土曜日のNHK教育の朗読の時間に「24の瞳」が朗読されている。遅い時間なので、はっきりとしない頭で聞くのだが、内容もさることながら坪井栄の日本語がほんとに確かである。日本語に無駄が無く表現がきりっとしている。女優さんが朗読をしているのだけれど、それさえもじゃまである。彼女の朗読がどうの、こうのではなく、色をつけずに作家の日本語を読みたい、という気持ちになるのだ。しかしこの一言はほんとに生意気だ。今や自分は文盲のごとくに本を読まない。と書いてしまってから気がついたけれど、「文盲」はもはや使ってはいけない差別用語なのではなかろうか。しかしこれを「非識字」と言い換えたところで、何が正当化されるだろうか。言いたいことがぜんぜんちがってくるだけのことだ。
学生時代に読んだ時には、内容を理解しただけであった。半世紀以上の時が経過して、今、その描写力というか作者の能力の高さに感銘を受ける。百合の花のアルマイトのおお弁当箱がほしくて、ほしくて親にねだってみるものの、やはりかなわないどころか現実はもっと大きな不幸が覆いかぶさる女の子、修学旅行に行く、行かないの家でのやりとり、何を着せてやろうか、やっぱりセーラー服をきばろうか、と思い悩む親たち、靴を買ってもらったものの、親の意向は3年間は履かせるつもりだから、ぶかぶかしてあるきずらく、結局は裸足で通学する子。そのような時代や保守的な島の貧村の生活を背景にしながら、展開する小さな生活。しかしどのような描写もすばらしく、当時の子はかわいそう、島人は保守的で貧乏だ、などという事柄は背景に退く。それを浮かび上がらせた作者の力量はほんとにすごい。
小豆島が舞台なのだろうか。

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# by sakura_mohila | 2018-08-06 16:44 | Comments(0)